群馬県の富岡製糸場など四つの養蚕・製糸関連文化財が昨年6月、日本で14番目の世界文化遺産に登録された。明治の初め、養蚕・製糸に関する先進的 な技術、工業化が日本の近代化に大きく貢献したことが評価されたのである。当時、製糸業は日本の輸出産業の花形だった。明治の「富国強兵策」は、生糸の海 外輸出によってなされたといっても過言ではないだろう。
その後も日本の養蚕業は成長を続け、昭和初期に最盛期を迎えた。農林水産省の資料によると、いまから85年前の昭和5(1930)年に桑園の面積は70万ヘクタール、収繭量(しゅうけんりょう)は40万トン近くになった。養蚕農家数も、220万戸に達したという。
かつて養蚕は、「炭焼き」とともに農家の貴重な現金収入源だった。私の母の実家は養蚕も営んでいたが、蚕を「おかいこ様」と呼んで大切に扱ってい た。稲作に向かない中山間地が多い北関東や甲信、それに東北地方では特にその比重が高かったようだ。こうした地域では県庁に「蚕糸課」があり、繭の品質検 査を行う「繭検定所」が置かれていた。
敗戦によって大打撃を受けた養蚕業は、50〜60年代に戦後のピークを迎える。しかし収繭量は 10万〜12万トン程度で、最盛期の3分の1以下 だった。その後は化学繊維の普及や後継者不足で、衰退の一途をたどる。2013年の時点で、養蚕農家は全国で486戸、収繭量はわずか168トンだ。北関 東や甲信地域の中山間地を歩くと、2階建ての古民家が目につく。蚕室として2階部分が必要だったからだ。そこではいまの季節、山の斜面に鮮やかな緑の葉を つけた伸び放題の桑園を見ることがある。日本の養蚕は世界遺産を残したが、絶滅寸前だ。(望)
朝日新聞2015年5月20日